の続き。
久保田城跡
赤れんが郷土館の次は久保田城跡へ。
慶長2(1602)年に秋田に入部した佐竹義宣の手によって、翌3年(1603)年に窪田の神明山に建てられた城。
本丸・二の丸部分は明治時代に、長岡安平の設計で公園として整備されています。
秋田市佐竹史料館
二の丸の公園入口にある「秋田市佐竹史料館」を見学。
それほど大きな史料館ではないのですが、中に入るといきなり眼の前に佐竹義重所用の黒塗紺糸威具足が展示されていて、戦国時代好きの心を掴んでくれます。
その他にも佐竹義宣所用の二枚胴具足(肖像画でお馴染)や佐竹氏ゆかりの調度品等々が展示されており、佐竹氏関連の展示としては今回訪れたなかではピカ一でした。
千秋公園を歩く
雨降りしきる中、久保田城跡内を散策。
長坂門跡の枡形虎口。
表門(再建)。
御物頭御番所
表門前にある御物頭御番所。
久保田城は明治13(1880)年の大火で殆どの建物が焼失していますが、この御番所は18世紀後半の建築と推定され、城内で旧位置に残る唯一の建造物となっています。
物頭が詰めて登城者を監視していた部屋。薄暗い雨空の下で雰囲気が出ていました。
本丸:八幡秋田神社など
表門をくぐった先は本丸です。
本丸の様子はこんな感じ。
かつては政庁と本丸御殿が置かれ、周辺の土塁の上は多聞長屋と板塀で囲み、要所要所に隅櫓が置かれていたとのこと。
本丸に鎮座する八幡秋田神社。
明治11年(1878)年に、初代藩主秋田義宣を祀る「秋田神社」として創建され、同32(1899)年に現在地に移されました。現在は9代藩主義和、12代藩主義堯、佐竹氏の氏神だった八幡神社が合祀され、明治40(1890)年に現在の名称に改められています。
かつての社殿は、文政年間(1818~1829)に城内に造営された大八幡宮のものが移築され使用されていましたが、平成18(2006)年に焼失。現在の社殿は再建されたものです。
八幡秋田神社横にある与次郎稲荷社。
久保田城築城以前、神明山周辺に棲んでいたとされるキツネの頭:与次郎を祀ったもの。
よく見ると奉納されているキツネの像の形がそれぞれ微妙に異なっていて面白かったです。
本丸の西北隅にある、平成元(1989)年に市制100周年を記念して復元された隅櫓。
…ただし、てっぺんに展望台が追加され、模擬天守のような姿になっています。
元々この場所にあった櫓は二階造りで、武器庫を兼ねた役割を担っていたようです。
内部は佐竹氏の治世の解説がパネル展示されています。
往時の久保田城を再現した模型も。
本丸周辺。
4階の展望台から秋田市街を臨む。
久保田城築城を題材にした岩明均の短編「雪の峠」のラストに描かれた秋田市街地の風景ですね。
(↑「雪の峠」より)
本丸に設置された佐竹藩最後の当主:佐竹義堯公の銅像。
元は大正年間に造立されましたが、第二次大戦中に金属供出され、現在の像は平成元年に復元されたもの。
彌高神社
本丸から今度は裏門跡を通り、再び二の丸部分へ。
二の丸の北側には、平田篤胤と佐藤信淵を祀った「彌高神社」があります。
こちらの本殿・拝殿はかつて久保田城内にあった「正八幡宮」の社殿を転用しており、県の文化財に指定されているとのこと。
消失した八幡秋田神社の方は「大八幡宮」なので、それぞれ別の社殿が城内にあったということなんでしょうかね。
http://www.city.akita.akita.jp/koho/data/html/0786/0786_03_04.htm
秋田市HPのこちらの記事によると、佐竹氏初代昌義が石清水八幡宮から勧請したのが「大八幡」、13代義人が鶴岡八幡宮から勧請したのが「正八幡(小八幡)」だったとか。なるほど、大と小。
拝殿は見れない感じだったので、拝殿のみ撮影。
神社の前方には庭園が広がっていますが、これは明治期の千秋公園造成の際に整備されたものとのこと。
設計を担当した長岡安平は、明治~大正期に東京都嘱託として東京都内をはじめ全国各地の公園設計に携わっていたようです。