nori1104の日記

旅行とか展覧会の感想とか

秋田旅行4日目 秋田城跡、岩城亀田、象潟

nori1104.hatenablog.com

の続き。いよいよ(ようやく)最終日です。

 

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ホテルからの眺め。

日吉八幡神社

8時ごろにホテルを出発。最初に向かったのは県庁・市役所にほど近い場所に位置する日吉(ひえ)八幡神社

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駐車場の場所がちょっと分かりにくかった。

創建はWikipediaだと平安とも鎌倉とも言われ不明とのこと。『秋田県の歴史散歩』だと元亨2年(1322)創建との記載がありますがはてさて。とにかくその頃に近江の日枝山王と京都の岩清水八幡宮を勧請したが始まり。その後幾度かの移転を経て、寛永19年(1642)に雄物川の氾濫でそれまでの社地が流されたことから、寛文2年(1662)現在地に遷宮され現在に至ります。江戸時代には外町(町人町)の鎮守として崇敬を集め、「八橋の山王」の通称で親しまれているようです。

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東西に伸びる参道を西に進むと社殿が見えてきます。
建築物の多くは明和年間(1764~1771)の大火で被災し、それ以降に再建されたものです。

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拝殿。安永7年(1778)に完成したもので、県指定。

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2つの神社から勧請したからか、神額も2つ。
真ん中の奉納額は六歌仙ですかね。

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本殿は寛政9年(1797)の建築。こちらも県指定。

堂々とした造りの三間社です。

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そして三重の塔。これも県指定。
宝永4年(1707)に建築され、嘉永7年(1854)改築。
秋田県唯一の三重塔とのこと。

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拝殿前に聳えていたこの青銅製鳥居と石橋も県指定だったようですが、詳しいことは分からず。

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神社の北側にあった随神門。やっぱり県指定。
元は将軍家の位牌を祀った寿量院というお寺の山門で、明治3年(1870)にこちらに移されたとのこと。
Wikipediaの記事によると、建物配置が東側からだと神式、この北側から見ると仏式のものになっているとかなんとか。

ともあれ、街中に残る近世の神社建築を堪能しました。

秋田城跡

次いで訪れたのは国指定史跡:秋田城跡

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 最も北に位置する城柵官衙遺跡として、国の史跡に指定されています。
史跡指定範囲は上の案内図の薄い緑色部分、実に90haに及びます。

 

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史跡公園の東側に再現された外郭の築地と東門。

実際には写真の両脇すぐ先で築地は途切れているのですが、こうしてトリミングするとなかなか雰囲気があります。

 

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東門の外に広がる鵜ノ木地区。
多数の掘立式建物や井戸・沼の跡が数多く発見されており、かつての寺院跡と推定されているとのこと。遺構の出土状況が示されています。

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井戸跡。
昭和53年にここから天平時代の木簡が発見され、遺跡が古代の秋田城跡であることが完全に裏付けられたのだそう。

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様々な儀式を行う場と思われる沼(復元)。

 

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鵜ノ木地区の一角で発見された古代の水洗式トイレ跡。
建物や内部の様子が再現されています。

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中はこんな感じ。

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別の区画では中の様子が分かるようになっています。

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建物の裏はこんな感じ。なかなか良くできてます。

ちょっとばっちい話かもですが、排出部分に堆積した土の成分分析という調査もされており、そこからトイレ利用者の食習慣、更には利用者の属性などを割り出す試みもされているようです。
当時の日本人に豚食の習慣が無いにもかかわらず、豚を常食する人を中間宿主とする有鉤条虫卵が検出されたことから、大陸からの渡来者が利用していた可能性が高く、故に秋田城が大陸からの来訪者をもてなす迎賓館・外交拠点としての役割も担っていたと考えられる…という事までが判明しているらしく、なかなか興味深いです。

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来た道を引き返して、今度は西側にある政庁跡へ。

政庁前には幅12mの立派な東大路が復元されています。

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復元された政庁周りの内郭。

築地塀の足元が傷んでるように見えますが、これはこれで雰囲気が出てる気も。

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政庁内部は建物の復元は無く、遺構の位置が示される程度になっています。

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その代わり、政庁入口そばに復元予想がミニチュアで展示されています。

時期によって建物の配置や戸数が異なったり、外壁が築地から板塀に変わっていたりしていた様子。

秋田城跡歴史資料館

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政庁跡のすぐ近くに建てられた「秋田城跡歴史資料館」。

2016年4月に開館した新しい資料館です。

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館内の秋田城ジオラマ

 秋田城の歴史、史跡からの出土遺物、そこから明らかになった秋田城の役割や当時の社会風俗等、わかりやすく紹介されていました。

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鵜ノ木地区「天平の井戸」の復元。ここから出土した木簡の年代が「続日本紀」で秋田城の記述のある年代とほぼ一致したそうで。古文書の記述と発掘された遺物との一致。その瞬間に立ち会った研究者の快感というか喜びというか、果たして如何ばかりか…と思わされます。

外交・交易拠点としての秋田城の解説も興味深く、渤海国との交流では外交関係から朝鮮半島経由ルートが使えず、樺太・北海道を経由する北回り航路や日本海横断が使われていたので、秋田城が最北の役所として渤海使節の対応を行ったことが多かったとのこと。水洗トイレ遺構の使用者に繋がる話ですね。

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廃棄文書を漆壺の蓋に再利用した結果、腐敗することなく残った漆紙文書(複製)。赤外線カメラを当てると文書が読み取れます。

この赤外線カメラで漆紙文書や出土木簡の解読を体験できるコーナーがあったのが面白かったです。昔の衣服や甲冑を体験できる博物館は数あれど、赤外線カメラで古文書解読が体験できる施設はそうそう無いですね。

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ついでなので、秋田城跡の一角にあった秋田県護国神社にもお参り。

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明治2年(1869)に戊辰戦争で亡くなった官軍戦没者を祀ったのが始まり。そういえば秋田藩奥羽越列藩同盟から造反したんだっけ。

戦後の一時期に軍国主義施設との批判を免れるために伊弉諾尊伊弉冉尊を合祀して主祭神としていた時期もあったらしく、現在も戦没者と一緒にその2柱が祀られています。あと平成2年には過激派により時限爆弾を仕掛けられて社殿全焼の憂き目にあったこともあるそうで、凄い経歴ですね。

油田!

護国神社にお参り後、秋田城跡にほど近いショッピングセンターに車を停めます。

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油田!!!!!!!!

 

ショッピングセンター入口、川沿いに整備された小さな公園に、唐突にそれは鎮座していました。

日本国内で操業を続ける数少ない油田・八橋(やばせ)油田です。

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写真のポンピングユニット(その形状から『馬のつら』という俗称が付いていたとか)は寄贈されたものらしく、現在は稼働していません。カラフルな塗装が施されていますが、製造年は50年以上前と、意外と年季物です。

 八橋油田自体は明治40年(1907)頃から試掘が行われ、昭和10年(1935)に日本鉱業により本格的な採掘を開始。全盛期の昭和30年代には年間30万klを算出し、このあたり一帯に採掘用の櫓が林立していたとのこと。今では全盛期の1割以下の産油量しかないようですが、wikipediaの該当ページには1952年ごろの油田の写真が掲載されており、往時の光景を偲ぶことができます。藤田嗣治「秋田の行事」にも左端に櫓らしき塔が描かれており、かつては秋田を象徴するものの一つだったのかなあ、と思います。

 

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油田の横を流れる川は「草生津(くそうず)川」という名前で、石油の古い呼び名である「臭水(くそうず)」に由来しており、古くから石油が湧き出る地域だったことが伺えます。

 

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近くの空き地には稼働中のポンピングユニットがあり、ゆっくりと首を上げ下げしていました。

日本的な住宅街の中に突如として現れる油井、なかなかインパクトがある光景でした。

 

由利本荘(岩城)へ

市街地の油田で石油王への夢に嘗ての産油地帯に思いを馳せた後は、市街地を離れ日本海沿いに南下。

いよいよ旅も終盤です。

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ひらがなのいわき市から漢字の旧岩城町へ。

かつて福島の磐城地方を支配していた岩城氏が、関ヶ原の戦後処理で改易された後、亀田藩2万石の領主として返り咲きを果たし、幕末までこの地を支配していました。かつての領主の名前にちなんだ地名です。

いわき市と旧岩城町とは、姉妹都市ならぬ「親子都市」の協定を結んでおり、現在の由利本荘市ともその関係が続いています。

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道の駅岩城にあった風量発電機。

この他にも海沿いに風力発電所が幾つか点在していて、巨大な風車が立ち並ぶ様はなかなか壮観でした。

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 日本海の風の強さを示す斜めの木々(この日は風もない陽気でしたが)。

これも日本海沿いを象徴する光景と言えなくはない気がします。

天鷺村

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 かつての亀田藩庁が置かれていた亀田地区へ。

歴史を題材としたテーマパーク:天鷺村が営業していたので、入場。

天守閣風の建物もあり、うっかりここが亀田城跡かと思ってしまいますが、実際の城跡は少し離れた所にあります。そこには亀田城を模した建物の美術館があったようですが、今回はパス。

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なんだこいつらは

 

真田信繁の娘・御田の方(顕性院)が亀田藩主2代:岩城宣隆の側室となり、3代藩主重隆を産んだということで、真田ゆかりの地としてのアピールがされていました。

訪問当時(2016年)は大河ドラマで「真田丸」が放映中。そういえば「真田丸紀行」でもこの地が紹介されたことがありましたね。

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天鷺村敷地内にある岩城歴史民俗資料館でも、御田の方にまつわる企画展が開催中でした。

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館内の岩城氏略年表では亀田入部前の磐城時代の年表も。

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嘉永5年(1852)に築かれた亀田城大手門の鬼瓦。

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敷地内には古民家が数軒移築されており、由利本荘市文化財に指定されています。

上の建物は泉田地区の肝煎を務めた佐々木家の住宅。江戸後期の農家の様式をよく継承しているとのこと。

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内部の様子。

 

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佐々木家住宅茶の間にあったお仏壇。明治期には養蚕をやっていたそうで、往時の裕福さを偲ばせる豪華な造り。

 

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菊水をあしらった自在鉤。

 

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こちらは武家屋敷の移築。代々亀田藩で馬術師範を務めた松村家の住宅。

 

続いて天守閣風の展望台へ。

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展望台内部に貼られていたNHKのポスター。なかなか身につまされます。

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展望台からの眺め。けっこう海が近い。

 

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他にも歴史館なんかがあったようですが、入り方が分からずパス(閉鎖されてたのかな)。それでも意外と見応えのある施設でした。

 

龍門寺:岩城家墓所

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続いて、町の外れにある岩城家の菩提寺:龍門寺へ。

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境内の一番奥に鎮座する、亀田藩主岩城家墓所

秋田市の佐竹家墓所と並び、県内に残る近世大名家墓所として、秋田県の史跡に指定されています。

中央の御霊屋には岩城家累代の位牌や二代重隆・七代隆喜の木造が置かれており、左右の覆屋の下には五輪塔が鎮座しています。

ちなみに龍門寺、岩城家の旧領であるいわき市平にも現存していて、そちらには移封前の累代当主の墓所が残されています。

町内には他に、顕性院が建立した妙慶寺にも真田ゆかりの展示があって面白そうだったのですが、駐車スペースが見つからず断念。かつて地元を治めていた殿様の「新天地」を後にしたのでした。

象潟

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途中、道の駅象潟に立ち寄ろうとしたら大変な混み様で入場できず。後で調べたらどうやらポケモンGOの聖地のような扱いになっていたらしく。今は少しは落ち着いているでしょうか。

 気を取り直して、最後の訪問先:にかほ市象潟へ。最初に郷土資料館で象潟の概要に触れる。

 象潟の始まりは紀元前466年に発生した鳥海山の噴火で、山体崩壊による「流れ山」が日本海まで到達。体積した土砂で一帯に浅い海と島々ができあがり、やがて発達した砂嘴によって海から分断して潟湖となり、古代より景勝地として親しまれるようになったのだとか。江戸時代には「東の松島、西の象潟」と並び評されたそうですが、リアス式海岸である松島とは、全く異なる形成過程を経ていたようです。

古くは歌枕の題材となり、元禄2年(1689)年に松尾芭蕉天明4年(1789)に菅江真澄が訪れるなどしていましたが、文化元年(1804)6月4日に発生した象潟地震で海底が隆起。周辺の開拓などを経て現在に至るとのこと。

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資料館の外には、鳥海山山体崩壊に巻き込まれた「埋もれ木」が展示されていました。こうした埋もれ木を年輪年代測定法で調査して、山体崩壊の発生年が割り出されたそうです。この辺では古くから埋もれ木が数多く出土しており「神代杉」として建築・工芸材料として重宝されていたとのこと。

 

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資料館を見てから象潟の現地を訪問。

松尾芭蕉等の多くの文人が訪れた古刹:蚶満寺

象潟地震の後、本荘藩によって嘗ての小島が削られ開発されそうになった時、当時の住職:覺林が景観保護のために奔走した逸話が残されています。

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江戸後期に建てられた楼門。ここから先は入山料300円。

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本堂。象潟地震の後の再建でしょうか。

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本堂裏手からのかつての九十九島。うーん…割と近くに住宅街もあってここからの風景はいまいち…。田んぼに水が張られた時期ならもう少し違ったかも知れませんが。それでも鳥海山の姿は流石の名峰。

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よく見ると、向こうの山に風力発電の風車が横一面にズラリ。古くからの景勝地との対比が印象的でした。

 

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かつての九十九島の風景は、むしろお寺の外から見たほうが印象的でした。

潟湖だった頃の名残がまだまだ感じられる風景。

 

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 九十九島全てを回る時間は無いので、お寺すぐ近くの「駒留島」までのみ歩いてみる。

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駒留島の頂上にあった、国指定史跡・名勝を示す石柱。

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再び鳥海山

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小島には一つ一つに名前が付けられているとか。

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壮観、という程では無いですが、田植えの時期にもう1回来ても良いかな、と思える場所でした。

 

象潟を見終えた時点で午後4時。こりゃ家に着く頃には夜中ですな…と思いながら帰路について南下。酒田から日本海東北道、山形道、東北道磐越道と乗り継いで、午後9時に帰宅。4日間、総走行距離約1,150kmの旅を終えたのでした。

角館、秋田市男鹿半島、由利地方と、それぞれ地域の歴史や自然に親しめた良い旅でした。今回行きそびれた場所もあるのでいずれまた再訪したいです。でも今回行けなかった横手や湯沢、小坂町あたりも興味深いので、次回秋田を訪れる際にはそっちがメインになるかもしれませんね。