nori1104の日記

旅行とか展覧会の感想とか

秋田旅行3日目② 男鹿半島周回その2

 

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の続き。

入道崎へ

赤神神社を後にして、日本海沿いの道を北上。

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道中見つけた廃ドライブイン。見事な廃墟振りに思わず車を停めた。

男鹿水族館GAOにも寄りたかったのですが、スケジュール的に微妙だったのと駐車場が満車だったことからパス。まぁまた来ることもあるでしょう。

お昼ちょうどに入道崎に到着。

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お昼はうにといくら。観光地値段ですがやむなし。

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サービスでサザエも付いてきました。

 

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入道崎灯台

明治31年(1898)に設置。現在の灯台は昭和26年(1951)改築の2代目。

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白黒の縞模様が美しい。

 

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草原の先は断崖絶壁。その先にはこれぞ日本海、という感じの荒波。

 

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普段は灯台内部に登れるようでしたが、訪問時は残念ながら強風のため閉鎖中。

 

 元職員詰所と思しき資料館は、中に入ると外の風の音が一切聞こえない、堅牢な造りでした。

 

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岬の北の端から蠢く波を写す。あまりの強風で1分と居られず。

ススキのたなびき具合で風の強さを感じていただければ。

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岬の北の沖合にある水島。

真ん中に建っている白い塔は、灯台の光を反射する照射塔とのこと。

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灯台守という職業のある時代に生まれたかったなあ、などと思いつつ、強風から逃げるように退散。

 

真山神社なまはげ

 

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海沿いを離れて半島の中央部に位置する真山神社へ。

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なまはげゆかりの神社ということで、楼門にはこんな奉納額が。

国鉄土崎工場鍛冶職場という願主も渋い。

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神社の本殿は3km先の真山山頂。なので麓の拝殿だけお参り。

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境域に今も残る薬師堂。

神仏分離以前は修験道霊場だったそうです。

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2つの御神輿。

向かって右のは正徳4年(1714)に秋田藩主:佐竹義格が寄進したもの。

国や自治体の指定は受けていないとはいえ、文化財級のものがしれっと置いてあるとビビりますね。

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ここにも境内にしれっと置かれていた丸木舟。こっちは市の有形民俗文化財に指定されている模様。

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赤神神社では本降りの雨だったのに、こちらに来た時には晴天。

せわしない空模様でした。

なまはげ館・男鹿真山伝承館

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真山神社を参拝後、その横に建てられたなまはげ館を観覧。

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入館時にちょうど、なまはげの実演が行われるそうだったので、先に男鹿真山伝承館へ。

けっこう人気の施設らしく入口には体験待ちの行列ができてました。

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奥の間で座って待機していると、外壁をドンドン叩きながら2体のナマハゲが登場。

「泣く子はいねがー!悪い子はいねがー!」

お馴染のセリフを吐きながら、しばらくの間座敷を徘徊。

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 やがて家の主役の人に宥められ、酒肴を振る舞われるなまはげ

なまはげが「なまはげ台帳」なるものを取り出してそこに記された家族の悪事を読み上げ、それに対してまた主人が家族をかばいつつ宥め立て…というやり取りが繰り広げられます。

 

なまはげ「お前ぇん所の息子は…学校の宿題を何回も忘れたようだな!あと嫁は…夜な夜な家を抜け出してカラオケ三昧してるようでねぇか!」

主人「いやいやそれは…」

 

カラオケとか随分モダンなもの知ってんななまはげ。きっとこのご時世なら家族の悪口をSNSに書き込んだとか、ソシャゲに課金してお小遣い浪費したとか、そういうことも台帳に書かれてるんだろうな。

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地団駄を踏んで怒りを表すなまはげ。そういえばこのなまはげは包丁持ってませんね。

 

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子供や嫁が出てこないことに怒り、観客席を探し出すなまはげ

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客席に迫るなまはげ。裏の戸に回り込んで客席に乱入するパフォーマンスもあって、なかなか臨場感がありました。

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男鹿真山伝承館の建物は明治40年(1907)に建てられた古民家を移築したものらしく、国の登録有形文化財となっていました。次の実演時間が迫っており内部の写真はあまり撮れず。

 

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続いてなまはげ館を観覧。

 

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ここの見どころは男鹿半島各地のナマハゲ面が一同に介したこの展示。

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怖い面、ユーモラスな面、古くから使われていそうな面、アルミホイル等現代の材料を使った面など、どれも個性的。

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中には今も現役で利用されているお面もあり、なまはげシーズンになると地域の人が受け取りに来るのだとか。

しかしこのご時世、すでに中断している地区もあるんだろうなあ。

売店にはなまはげ柄のネクタイが売られていて(7,000円)、買おうかしばし迷いました。

再び大潟村へ:干拓博物館

なまはげ館を見た後は再び大潟村へ。

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村の中心地区の一角に建てられた、大潟村干拓博物館を観覧。

日本第2の面積を誇った八郎湖を、昭和32年から(1957)昭和39年(1964)年までの工事で干拓し、同年に発足した大潟村のあゆみが展示されています。

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八郎湖ビフォーアフター。かつての八郎湖の姿を見ると、男鹿半島が2つの砂州によって本土と繋がった陸繋島であることがよく分かります。

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干拓の手順に関するミニチュア展示。

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初期の入植者は全国から公募され、試験を経て選抜されたとのこと。

 

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入植当初の様子を再現したジオラマ

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単なる博物館の展示の一つかもしれませんが、大潟村の精神を象徴するかのような、そんな崇高さを感じさせられました。

 

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屋外には干拓や耕作で利用されていたと思われる器具類が展示されていました。

 

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ついでに村の中央部附近に築かれた大潟富士に立ち寄り。山頂で海抜0m。

 

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大潟富士の横に建立された、八郎潟開拓記念水位塔。半円の切れ目でちょうど海抜0m(=八郎潟の当初の水位)とのこと。

 

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海抜0mからの眺め。

八郎潟、立ち寄る前は道の両脇に広がる一面の水田!という光景を想像していたのですが、実際には車道の両脇には用水路と樹林帯が視界を阻んでおり、思っていたような光景は得られませんでした。八郎富士からの眺めも↑のような感じ。まぁ、田園地帯の一端を覗けただけでもよしとします。

 

再び秋田市街へ

 この日の宿は秋田市街地のビジネスホテル。ということで、24時間ぶりに秋田の街なかへまたまたとんぼ返り。

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夕飯は秋田県立美術館近くの居酒屋へ。

 

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比内地鶏の親子丼。

 

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比内地鶏のアイスクリーム。

 

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 秋田市街地の夜はなかなかの賑わいでした。ホテル回りはシャッター街世知辛い感じでしたが…

 秋田駅ビルでお土産を買い込んでこの日の活動は終わり。

 

秋田旅行3日目① 男鹿半島周回:寒風山と赤神神社五社堂

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の続き。

この日の旅先は男鹿半島

 

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朝食。食べ過ぎ。

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泊まったホテルの外観。

 

寒風山

この日最初の目的地は半島付け根にある寒風山。

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少し山道を登ると、芝草に覆われた開放的な空間が。

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主峰の南側のピークにある小展望台に登ってみる。

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石畳の遊歩道も相まって(海外行った事ないのでよく分かりませんが)どことなく異国っぽい。

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 小展望台から寒風山方面を臨む。

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男鹿市街地方面。奥に見える石油タンクは秋田国家石油備蓄基地のもののようです。凄みのある名前ですね>国家石油備蓄基地

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寒風山の中腹にはなにやら石碑のようなものが見えます。

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過去に周辺を襲った地震の被害を記した地震塚のようです。

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記念撮影するんじゃない。

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続いて山頂にある展望台へ。今でも現役の回転展望台。

 

 

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展望台内部はちょっとした資料館になっていました。

↑は男鹿沿岸で長らく利用されてきた丸木舟。

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色々な感情が込められていそうなプレート

 

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火口跡。なだらかな山容のなかで急峻さがひと際眼につきます。

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こちらの浅い窪みも火口跡。

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世界三景のひとつだそうです。言ったもん勝ちですね

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 昨日泊まった八郎潟方面。調整池の直線的な湖岸線が眼を惹きます。

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南の潟上市方面。こちらは海岸線の曲線が見事。

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山頂には何故か「五箇条の御誓文」を刻んだ石柱が建てられています。

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昭和5年に山頂に築かれ、同39年に現在地に移設されたとのこと。

月並みですがここまでの輸送方法が気になります。

赤神神社五社堂へ

寒風山を下り、次の目的地:赤神神社五社堂へ。

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しかし海岸沿いを走っていると所々海の様子が気になってしまい、時折車を停めて海を眺めていました。

 

 眼の前と沖合とで波の進む方向が違っていて不思議な光景でした。

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道すがら下手な写真を何枚か撮っているうちに神社入口に到着。

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男鹿半島に住まう鬼たちが、一晩で999段積み上げたという石段を登る。

ひょっこり鬼ならぬ熊に出くわさないかとビクビクしながらの登りでした。

男鹿半島には熊はいないとのことでしたが)

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石段を登ること10分。五社堂に到着。

人里離れた山中に五つの社殿が並ぶ。

元は貞観2(860)年開創と伝わる「日積寺永禅院」というお寺だったものが、明治3年に神仏分離令によって神社に改められたもの。現在の五社堂は宝永4年(1707)~同7年(1710)に秋田藩主:佐竹義格の命により改築されたもので、国の重要文化財に指定されています。

向かって右側から順に、三の宮堂、客人(まろうど)権現堂、赤神権現堂、八王子堂、十禅師堂となっています。

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土塁を登り、一社づつ参拝。

 

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先述の石段を築いた鬼の伝説は「ナマハゲ」の由来の一つとされており、以下のような伝説が残されているとのこと。

漢の武帝が不老不死の薬草を求め、5匹のコウモリを従えて男鹿半島を訪れた。5匹のコウモリは鬼の姿に変身し武帝の為に働いたが、正月15日に一日だけ休みを貰い、村里に下りて乱暴狼藉を働いていた。耐えかねた村人が武帝に対し「鬼が五社堂まで1,000段の石段を築くことができたら、毎年一人づつ娘を差し出す。もしできなかったら、二度と鬼たちを村に降ろさないで欲しい」と持ちかけた。鬼たちは一晩で999段まで石段を積み上げたものの、村のアマノジャクが鶏の声真似をして夜明けを偽り、石段完成を阻止。騙された鬼たちは、怒りに任せて近くの千年杉を引き抜き、逆さまに地面に突き刺して山へ帰り、二度と村には下りてこなかった…

不老不死の妙薬を求めた中国の皇帝といえばまず始皇帝が思い出されますが、この伝説だと漢の武帝なんですね。

上の写真の杉の木が伝説に現れる「逆さ杉」なのかな、と思いましたが、現地の説明板に「何時の頃よりか枯れ朽ちて今は古株だけが現存している」とあったのでどうも違うっぽいです。

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五社堂に着いたときは晴れ空だったのですが、いつの間にか雲行きが怪しくなり終いには雨が降り出し、しばらく手水舎で雨宿りする羽目に。そんな経験も含めて神秘的な空間でした。

秋田旅行2日目⑤ 寺崎廣業展と藤田嗣治「秋田の行事」と

 

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  久保田城跡を見終えた時点で既に16時近くを回っていたものの、折角なのでギリギリまで粘ってみるかという事で、三の丸にある「秋田市立千秋美術館」と「秋田県立美術館」を限られた時間内でハシゴしてみることに。

 両館ともに閉館時刻が18時と若干遅めなのも幸いでした。

 まずは秋田市立千秋美術館。秋田蘭画が見られれば良いなあ、と想いながら入館したのですが、開催していたのは秋田市出身の日本画家:寺崎廣業(1866~1919)の展覧会でした。

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 寺崎廣業、恥ずかしながらこの展覧会で初めて名前を知ったのですが、生前は横山大観竹内栖鳳らと肩を並べ、明治・大正期の日本画壇の頂点に君臨していた画家だったそうです。

 展示作品の中では、明治時代の風俗を後世に伝える「『当代の歴史画』としての風俗美人画」として描かれた「秋苑」、大画面の歴史画「大仏開眼」などが特に印象に残りました。晩年に描かれた信州の山々もたいへん良かった。

 次いで、秋田県立美術館を訪問。

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 美術館は安藤忠雄の設計。確かにそう言われてみればそんな感じがします。元は千秋公園内にあったものを、平成25年にこちらの再開発区域に移転してきたものなのだそう。元の建物には藤田嗣治の意向なども反映されており、そこからの移転には反対運動などもあったようですが、それはさておき。

  ここでの見どころは藤田嗣治の「秋田の行事」。秋田有数の資産家であった平野政吉が、建設を構想していた美術館の壁画とするために、親交のあった藤田に制作を依頼したもの。展示室に入ると高さ3m65cm、幅20m50cm(!)という大作振りにまず圧倒されます。絵の中には竿灯祭りや山王祭などの祭礼や、制作当時(昭和12年)の秋田の冬の生活等が生き生きと描かれており、秋田人ならずとも厳かな気持ちにさせられました。記念にポストカード(風の複製)買いましたが横長すぎて家での取り扱いに難儀しています。

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(長い)

 

 企画展の方は、越後瞽女を題材にした作品を数多く描いた斎藤真一の展示。

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 フライヤーの通り、赤色が印象的でした。

 

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 やや駆け足気味に2つの美術館を見て回り、後はホテルに向かうのみ。…とはいえこの日の宿泊先は秋田市内ではなく、大潟村八郎潟干拓地にあるホテル。という訳で、警報レベルの大雨*1が降りしきる夜の道を車で1時間ほど走り、本日のねどこへと向かいます。

 途中、小さな橋を渡ったかと思ったら、その後はひたすら続く直線道路。八郎潟干拓地に入ったんだと気づくのには少し時間がかかりました。もう少し大きな橋を渡るものだと思っていた。夜間ということも相まって、長い長い直線道路は走ってて少し怖かったです。

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 (元)みずうみのうえにいる。予定より少し遅れて、大潟村のホテルに到着。

 

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晩ごはん。お米はもちろん大潟村産。八郎潟干拓地で作られたお米、と聞いただけで何だか特別な感じがするのは自分だけか。

 

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*1:実際、男鹿半島で土砂崩れが発生してた模様

秋田旅行2日目④ 久保田城跡を歩く

 

 

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久保田城跡

赤れんが郷土館の次は久保田城跡へ。

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慶長2(1602)年に秋田に入部した佐竹義宣の手によって、翌3年(1603)年に窪田の神明山に建てられた城。

本丸・二の丸部分は明治時代に、長岡安平の設計で公園として整備されています。

秋田市佐竹史料館

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二の丸の公園入口にある「秋田市佐竹史料館」を見学。

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それほど大きな史料館ではないのですが、中に入るといきなり眼の前に佐竹義重所用の黒塗紺糸威具足が展示されていて、戦国時代好きの心を掴んでくれます。

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その他にも佐竹義宣所用の二枚胴具足(肖像画でお馴染)や佐竹氏ゆかりの調度品等々が展示されており、佐竹氏関連の展示としては今回訪れたなかではピカ一でした。

千秋公園を歩く

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雨降りしきる中、久保田城跡内を散策。

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長坂門跡の枡形虎口。

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表門(再建)。

御物頭御番所

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表門前にある御物頭御番所。

久保田城は明治13(1880)年の大火で殆どの建物が焼失していますが、この御番所は18世紀後半の建築と推定され、城内で旧位置に残る唯一の建造物となっています。

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物頭が詰めて登城者を監視していた部屋。薄暗い雨空の下で雰囲気が出ていました。

本丸:八幡秋田神社など

表門をくぐった先は本丸です。

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本丸の様子はこんな感じ。

かつては政庁と本丸御殿が置かれ、周辺の土塁の上は多聞長屋と板塀で囲み、要所要所に隅櫓が置かれていたとのこと。

 

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本丸に鎮座する八幡秋田神社。

明治11年(1878)年に、初代藩主秋田義宣を祀る「秋田神社」として創建され、同32(1899)年に現在地に移されました。現在は9代藩主義和、12代藩主義堯、佐竹氏の氏神だった八幡神社が合祀され、明治40(1890)年に現在の名称に改められています。

かつての社殿は、文政年間(1818~1829)に城内に造営された大八幡宮のものが移築され使用されていましたが、平成18(2006)年に焼失。現在の社殿は再建されたものです。

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八幡秋田神社横にある与次郎稲荷社。

久保田城築城以前、神明山周辺に棲んでいたとされるキツネの頭:与次郎を祀ったもの。

よく見ると奉納されているキツネの像の形がそれぞれ微妙に異なっていて面白かったです。

 

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本丸の西北隅にある、平成元(1989)年に市制100周年を記念して復元された隅櫓。

…ただし、てっぺんに展望台が追加され、模擬天守のような姿になっています。

元々この場所にあった櫓は二階造りで、武器庫を兼ねた役割を担っていたようです。

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内部は佐竹氏の治世の解説がパネル展示されています。

 

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往時の久保田城を再現した模型も。

 

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本丸周辺。

 

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4階の展望台から秋田市街を臨む。

久保田城築城を題材にした岩明均の短編「雪の峠」のラストに描かれた秋田市街地の風景ですね。

 

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 (↑「雪の峠」より)

 

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本丸に設置された佐竹藩最後の当主:佐竹義堯公の銅像

元は大正年間に造立されましたが、第二次大戦中に金属供出され、現在の像は平成元年に復元されたもの。

彌高神社

本丸から今度は裏門跡を通り、再び二の丸部分へ。

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 二の丸の北側には、平田篤胤佐藤信淵を祀った「彌高神社」があります。

こちらの本殿・拝殿はかつて久保田城内にあった「正八幡宮」の社殿を転用しており、県の文化財に指定されているとのこと。

消失した八幡秋田神社の方は「大八幡宮」なので、それぞれ別の社殿が城内にあったということなんでしょうかね。

 

http://www.city.akita.akita.jp/koho/data/html/0786/0786_03_04.htm

秋田市HPのこちらの記事によると、佐竹氏初代昌義が石清水八幡宮から勧請したのが「大八幡」、13代義人が鶴岡八幡宮から勧請したのが「正八幡(小八幡)」だったとか。なるほど、大と小。

 

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拝殿は見れない感じだったので、拝殿のみ撮影。

 

 

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神社の前方には庭園が広がっていますが、これは明治期の千秋公園造成の際に整備されたものとのこと。

設計を担当した長岡安平は、明治~大正期に東京都嘱託として東京都内をはじめ全国各地の公園設計に携わっていたようです。

秋田旅行2日目③ 赤レンガ郷土館(旧秋田銀行本店本館)

秋田旅行2日目② 佐竹氏の菩提寺と秋田県立博物館 - nori1104の日記

の続き。

 

お昼過ぎに県立博物館を出発し、秋田市中心部へ。

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繁華街の一角にあるお店でラーメンをいただく。

ぼく「すみません、この…えっと…(『千秋麺』って何て読むんだ…?)『ちあきめん』?ってのください」

お店の人「ああ、『せんしゅうめん』お一つですね。かしこまりました」

ぼく「あっあっ…ごめんなさい…」

久保田城跡の「千秋公園」にちなんだ料理名であることも知らず、他所から来た人であることがモロバレのやり取りでした。

後で知ったのですが、この辺りで一杯やった後の〆のラーメンの定番だとか。美味しかったです。

 

赤れんが郷土館(旧秋田銀行本店本館)

 

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昼食を終え、市街地最初の見学先:赤れんが郷土館へ。

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秋田銀行本店本館として明治45(1912)年に建造され、昭和44(1969)年まで銀行の店舗として使用されていました。戦後の一時期はアメリカ進駐軍の軍政部として利用されたこともあるとのこと。昭和56(1981)年に秋田銀行から秋田市に寄贈され、平成6(1994)年に国の重要文化財に指定されています。

1階部分は白の磁気タイル、2階部分はその名の由来ともなった赤い化粧煉瓦が外壁に施されています。土台には男鹿石が利用されています。

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外観も非常に美しいのですが、内部もお見事。入ってすぐの営業室では、天井の石膏の彫刻に圧倒されます。

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気づいたら天井の写真ばかり撮っていました。f:id:nori1104:20170604205655j:plain

扉周りの装飾にもほれぼれ。

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営業室の奥には頭取室と金庫室。

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 2階部分から営業室を眺める。トラス工法のお蔭で支柱のない開放的な空間。

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通路の装飾も一つ一つが素敵。

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 貴賓室。内装にもひときわ力が入っていました。

 この他には常設展示として、秋田市内の伝統工芸の展示、木版画家・勝平得之、鍛金家の関谷四郎の作品展示などがあり、企画展示室では土方巽と秋田にまつわる展覧会が開かれていました。

秋田旅行2日目② 佐竹氏の菩提寺と秋田県立博物館

長らく放置してしまいましたが、半年前の秋田旅行記の続き。

nori1104.hatenablog.com

 

天徳寺:佐竹氏の菩提寺に残る重文建築

ホテルで朝食の後、角館を出発。

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下道を車で1時間ほど走り、本日の旅行先:秋田市へ到着。まずは佐竹氏の菩提寺:天徳寺にお参り。

元々は常陸太田にあったお寺。寛正3年(1462)、佐竹義人が夫人を弔う為に創建したのが始まりで、その後水戸を経て佐竹氏の転封に伴い秋田楢山に移転。寛永元年(1624)に火災に遭ったのを期に現在地に移転しました。

上の写真に写る総門は寛永元年の火災で焼け残り、寺の移転とともに現在地に移された境内最古の建築物。この総門の他、山門、本堂、書院、佐竹家御霊屋が国の重要文化財に指定されています。

 

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総門をくぐり、宝永6年(1709)建立と伝わる山門を臨む。

お寺の前はけっこう車通りの多い県道に面しているのですが、境内に入ると外の喧騒とは隔絶された静穏な空間が広がっていました。

 

門脇に置かれていた看板に、本堂・書院は保存修理工事のため平成35年まで拝観不可との文字が。あーこれはアレだな、中に入れても建物は覆屋で見れないやつか。まぁそういう巡り合わせなら仕方ないな、などと想いながら参道を歩いていたのですが、

 

 

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 山門をくぐると、覆屋も無く目の前に茅葺き屋根の立派な本堂が。本堂前のスペースが工事区画のため、少々殺風景な中を遠巻きの参拝となりましたが、貞享4(1687)年に1万石を投じて建造された立派な本堂を眺めることができました。

書院と佐竹家霊屋は工事中のため立ち入りできず、次の目的地である秋田県立博物館へ向かいます。

 

秋田県立博物館:「発掘された日本列島展2016」を見る

 

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 かなり本降りとなってきた雨のなか、秋田市の北のはずれにある県立博物館に到着。

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 まずは巡回していた文化庁の発掘速報展「発掘された日本列島2016」を観覧。

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展覧会内部は撮影OKでした。これは新潟県糸魚川市の六反田南遺跡から出土した縄文土器群。

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ひとつひとつの土器の造形が異なっていていつまでも見ていられます。

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奈良市国史跡・中山瓦窯跡から出土した鬼瓦。中山瓦窯跡は平城宮に供給する瓦を生産していたとのこと。

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福島県須賀川市・稲村御所館跡から出土した、呪いの墨書のあるかわらけ。

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伏見城跡出土の金箔瓦。

・・・等々、全国各地から出土した考古資料を堪能しました。

あとこの「発掘された日本列島」展、東日本大震災以降は「復興のための文化力」と題して、震災被災地における復興事業に伴う発掘調査の成果を継続して特集展示してくれています。

今年度の被災地における発掘成果で面白かったのは福島県楢葉町の高橋遺跡で、全国的にも珍しい男性型の土偶が発見されたとのこと。高さ6cmほどのとても小さな男性型土偶が展示紹介されていました。

また今回は、地震や噴火、洪水などの被害や、災害からの復興の様子が分かる遺跡についても、2つ目の特集「復興の歴史を掘る」で紹介されていました。火山灰に埋もれた畑地を復旧する「天地返し」の遺構が見られる横野山王遺跡(神奈川県秦野市)、地震で生じた地割れを瓦礫捨て場に活用した段ノ原B遺跡(福島県相馬市)などの事例が興味深かったです。

 

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秋田県立博物館、常設展示の方は人文展示と自然展示、秋田出身の偉人を顕彰する「秋田の先覚記念室」等があり、全てをじっくり見ようとすると丸一日はかかりそうなボリュームでした。それでいて常設展観覧料は無料という気前の良さ。今回は時間の都合で人文展示のみを一通り観覧。残念ながら一部を除いて撮影禁止だったのであまり写真はありません。これは!と思うような展示については(訪問から半年以上経った)今ではあまり思い浮かばず何とも申し訳ないですが、古墳時代の展示が少なめで代わりに秋田柵・払田柵や前九年・後三年の役等、古代の展示が充実していた(気がする)のは特徴的だった、ような気がします。

 

秋田旅行2日目① 角館・天寧寺の芦名氏墓所

nori1104.hatenablog.com

↑の続き。

ちょっと早めの時間に起床。

この日は一日中あいにくの雨。

博物館を中心に予定を立てていたのが幸いでした。

 

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 朝食まで時間があったので、雨でしたが朝の角館の町を少しだけお散歩。

ホテル周辺は田町と呼ばれ、芦名氏の旧臣が多く居住した内町に対し、佐竹本家から芦名氏へ付けられた直臣が多く居住した地域になっています。

伝統的建造物群の指定は受けていませんが、それでも黒塀に囲まれた立派な家が建ち並んでいて、内町にも劣らない風情がありました。

↑の写真は仙北地方の大地主だった太田家の門構え。中の洋館も見事な外観でした。

 

天寧寺:芦名氏の菩提寺

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 朝の散歩の目的地にしたのは、武家屋敷エリアの東の外れにある天寧寺。

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芦名氏の菩提寺として、寛永年間に会津の天寧寺から勧請されたお寺です。

 

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 天寧寺境内に佇む芦名氏の墓地。仙北市指定史跡。

角館を治めた芦名義勝とその子盛泰・盛俊、盛俊の子・千鶴丸、そして義勝・盛俊の妻や盛俊に殉じた家臣2名の祀られています。

 

芦名義勝は義広、あるいは盛重の名前の方が有名でしょうか。佐竹義重の二男として生まれ、天正15年(1587) に会津を領有する芦名家へ養子入りし家督を継承。しかし天正17年(1589)、摺上原の戦い伊達政宗に破れ、生家の常陸へ亡命。秀吉から佐竹氏与力として江戸崎45,000石を与えられますが関ヶ原後に所領没収。慶長7年(1602)に佐竹氏ともども秋田入りし、角館1万6,000石を与えられました。現在に残る武家屋敷の町割りは、義勝の治世下で行われたものです。個人的には政宗に滅ぼされた印象しかなかった義勝でしたが、現在まで残る角館の町並みを作り上げた人物だったとは知りませんでした。

 

角館に安住の地を得た芦名氏ですが、次代盛俊は20歳で夭折、その子千鶴丸に至っては、4歳の時にここ天寧寺の縁側から転落死してしまい、明暦2年(1656)に絶家が確定してしまいます。戦国末期にも芦名氏は盛興(享年29)・盛隆(享年23)・亀王丸(享年3)と当主が相次いで夭折していますが、角館に移ってからも、その流れをほとんど止められなかったのか…と物悲しい気持ちになりました。

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 天寧寺境内に鎮座する青銅製の阿弥陀如来坐像。Wiipediaによると千鶴丸の供養のために作られたもので、千鶴丸が転落死した敷石(沓脱石)が土台石にされているとか。